返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

自由と秩序

自由と秩序は相反するか。

自由の定義によるが、自由とは、辞書によれば、自分の意のままに振る舞うことができること、勝手気ままなこと、わがままとある。

一方、秩序とは、辞書によれば、社会や集団が、望ましい状態を保つための順序や決まり、とある。

勝手気まま、わがままに振る舞えば、時として、秩序を乱すことにもなるだろう。一方で、秩序を振りかざせば、自由を奪うことにもなりかねない。

この点で、自由と秩序は相反すると言えそうだ。自由と秩序との両立には、秩序が保たれる範囲内での自由は認められると考えられるだろう。これは、つまり、今現在の世の中がこれであろう。自由度の程度の差こそあれ、人類の歴史がこれだ。

多くの人々の自由度が極端に狭くなったとき、多くの人々の意識が、そのように感じるようになったとき、社会的な革命が起こりうる。そして、今までの秩序が崩壊し、新たな秩序がつくられていく。これが歴史の上で繰り返されてきた。これは見える力だけでなく、見えない力も関わってきたことだろう。

さて、好きなことをしなさい。楽しいことをしなさいと聞いたことがあるだろう。しかし、その人にとって、単純に好きなこと、楽しいことが、時には、社会通念上、秩序を乱すことに該当するかもしれない。

そういう場合、好きなこと、楽しいことを、推し進めていいものだろうか?
それをすることに葛藤は生じないのだろうか?
また、好きなこと、楽しいと思うことをやろうとしたら、止められることはないだろうか?

ある特定の集団から見れば迷惑なことでも、社会全体からみたら許されることもある。
反対に、ある団体からみたら許容されることでも、社会全体からみたら大迷惑なこともある。

自由に生きられるけれども秩序は保たれる状態は、結局は、全体からみたバランスのうちに成り立つものでありそうだ。そのバランスを肌で感じつつ、自由を謳歌することができる社会であれば、生きやすくバランスされた社会となりうるのではないだろうか。そのために、許容の範囲の広さが大事になってきそうだ。

最も、肌で感じるだけでは足りないから、法律、規則、決め事が存在する。また、感じるだけでは誤解が生じるから、ルール化する。人の感覚も曖昧であり、個々の感度もまちまちなのだ。
自由だけでは治まらず、秩序だけでも窮屈になる。

この世界は、やはり、バランスの上に成り立っている。