返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

quest

黄金の星への冒険。

私が何者であるのか?
どこから来て、どこへ向かうのか?
どんなミッションがあって、
何を為そうとするのか?

もはや、そのようなことは、
あまり重要なことではなく、
それらは枝葉であり、
幹の部分ではないのではなく、
中心に据えるものではない。

何をしたらよいかなんてどうでもよく、
興味を持ったことにトライしてみればよい。

うまく行かなかったら、
いつでも選択し直せばいい。
最短で行ければいいけど、
回り道した景色だって
とても重要なこと。

ハイヤーセルフや、ガイドは、
いつでもバックアップしているし、
ご先祖の方々も、
子々孫々までもが応援している。

誰かの指図のとおりに進むばかりでなく、
自分たちの手で掴んでいき、
自分たちの足で歩んでいく。

そつなくこなそうとするのではなく、
うまくやろうとするのではなく、
能書きだけたれているだけでなく、
泥臭くてたってよく、
ただやってみる。

批判されるかもしれないし、
失敗するかもしれない。
それでも、それが喜びの中にあるのなら、
またやってみようと思うだろう。

それが、全体のために自分を生き、
自分を生きることで、全体のためになるのならば、どんなに素晴らしいことだろう。

公のために生きる。利他の精神で生きる。
これは全て同じこと。

そして、宇宙の全てを把握する意識へと変容をとげ、神を掴み、内なる神と外に存在する神とが統合される。

黄金に輝く星へ向けて、
さぁ、出発だ。

ことばのチカラ

ペンによる暴力。
言葉による暴力。

「ペンは剣よりも強し。」
という慣用句がありますが、
「言葉は剣よりも強い。」
というのは、紀元前から言われてきたようです。

一般的に、言論は暴力より強い
と解釈されています。

暴力反対とか言いますが、
直接暴力を振るうだけでなく、
言葉一つで人を窮地に追い込む
ことも可能ですし、
文章一つで死に追いやる
ことも可能です。

凶器を用いて、
直接手を下さなくても、
言葉、文章一つで、
人を破滅に追い込めるのです。

例えば、戦国時代には、
偽物の文で、
敵を疑心暗鬼にさせて陥れたり、
言葉を駆使して、
敵の部下を離叛させたり、
刀や、鉄砲だけでなく、
言葉によっても、
敵を制してきました。

現代においても、
言葉巧みに操り、
言葉によって
誰かをいじめたり、
相手を失脚させたり、
陥れたりしている現実が
存在しますよね。

そうしたことは、
パワハラアカハラモラハラ等の
ハラスメントの一部にも見られます。

こうして考えてみると
言葉による暴力は、
幾世代にも渡って
行われてきているものと
考えることができそうです。
が、自分のところで、
それを断ち切ることも
できますよね。

言葉というものは、
人の心の奥深くを傷つけます。
もちろん、
言葉というものは、
人に勇気と希望を与えます。
言葉は、
人を傷つける道具だけでなく、
愛あふれる道具でもあります。

言葉は、言葉を生業にする人も、
そうでない人も、
普段の生活で使用しているものです。

いま、あなたが使う言葉が
他人にどう影響を与えるのか、
たまには、そんなことを
考えてみるのもいかがでしょうか?

私も同じです(笑)

つれづれなるままに6

そのときベストを尽くしたのだから、
仮に、過去にミスったとしても、
それを悔やんでも仕方がない。

手抜きをしたのではなく、
しっかり力をかけたのだから、
その時点では完璧だったということ。

そうやって、少しずつ少しずつ、
実家はなくても、上がって行くのだね。

石の上にも三年。
ということわざがあります。
何事も辛抱強くいれば、
いつかは報われることを
例えたものです。

がまん強く辛抱する
というよりは、
地道に積み上げた結果、
石の上に3年もいてしまった!
という意味にしたほうが、
これからの時代にフィットするかも
しれませんね。

終わりのない、
達成感に乏しいとき、
3年前よりはよいはずだ!
と思いたいものです。

ある悩める人

見えないものが、
見えたり、
聞こえたり、
感じたりすること。

それらの能力が具体的に、
顕現していてもよく、
顕現していなくてもよく、
どっちだって構わない。

顕現している場合、
より良く生きるために
備わっているのであって、
その顕現している能力を、
必要なときに使用すればよいだけのこと。

お金を頂戴して活用してもよく、
単に好意で活用してもよいのだ。

顕現した能力は、
生活の一部であるから、
それを生業にしてもよく、
業としなくてもよい。

どうするか?どうしたいか?
は、あなた次第。

でも、
その能力の一部を使いながら、
すでに、助言なり、
カウンセリングなり、
しているのだから、
他人の活躍は気にせず、
もう悩むことはなく、
できることにだけ、
その顕現した能力を
役立てるのがいいのではないだろうか。

レッスン

迷うし、悩む。

本当にそれでいいのか。
本当にそれで大丈夫なのか。って。

不安、葛藤、と、
大丈夫なはず、いけるはず、という
感情のせめぎ合いがある。

でも、やっぱり大丈夫なんだ。
うまいこといってるんだ。っていうこと
を確信させるように、
大丈夫なんだ!ってことが起きる。

そして、また大丈夫なの?
ってことがやってきて、
大丈夫なんだ!っていう設定をして
大丈夫にしていく。

こうやって、大丈夫っていう
自信を持たせ、確信させていくんだな。

思いつくままに8

人の営み。

この世に誕生して、
この世を去っていく。
それまでの一つの物語。
それが連綿とつながっている。

人に出会い、
与え、与えられ、
人の優しさに触れ、
人の厳しさを知り、
人と共にあることを体感し、
共に学び、共に遊び、
対話を重ねに重ねて、
世界観を創造していく。

平坦に進むばかりでなく、
時には、壁にぶつかり、
時には、穴に落ち、
時には、急な坂を登り、
時には、急に坂を転げ落ち、
もがいて苦しむ時代もある。

山を超え、谷を下り、
やがて広い大地に至り、
視野が格段に広くなって、
物事を向こうまで
容易に見通せるようになる。

その間に、
多種多様の知識を蓄え、
多種多様の感情が沸き起こり、
多種多様の経験を積み重ねる。

時代が変わっても、
普遍的なものは存在し、
伝えるべきものを、
人の叡智を、
惜しげもなく伝える。

最後に、
この世の壮大な舞台装置から
消えていく。

屋根の雫が地面に落ちるまで。
その一時に似たようなもの。
宇宙の時間から見たら、
ほんの一瞬の出来事。

誰かがいつも側にいて、
誰かに助けてくれることもあれば、
誰もいなくなって、
誰も助けてくれなくなることもある。

冬の時代も楽しみ、春を喜ぶ。
夏を迎えて、秋に収穫する。

人の営みは、
いくつものサイクルの積み重ね。

他人の種によって子を宿し、
他人同士で子を育てる。
その子はまた他人に種を与え、
または他人の種を受け入れ、
新たな命を生み出す。

親は子へ、子は親へ影響を与え、
自分は他人に、他人は自分に、
互いに影響しあう。

そうやって、人は進化を迎えていく。

さぁ、いよいよ新たな時代が
始まろうとしているという。

古い概念があるから、
新たな概念が生まれる。
古い概念を学んだから、
新たな概念に移行できる。

いよいよ本来の自分を思い出し、
次のサイクルを営むがよい。
人の命は、長いようで短い。
身が朽ちるまで、
人の営みを楽しむことだ。

つれづれなるままに

自分の中の正解ってなんでしょう

自分の中の正解は、自分だけの正解であって、他人から見たら不正解かもしれません。

それでも、他人に何と言われようとも、自分の中でブレずに、正解と思え、その感覚のままに進むことができたものは正解になるのでしょう。

その感覚のままに進むとは、逃げの感覚とは異なるものです。打算でもありません。その感覚で選択し、そこに勝手に進んでいく、そこに進まざるを得ないという感覚です。

その感覚のままにしたがって、進んだ先が、一見失敗のように思えても、それが実はレッスンになっている場合もあって、そのレッスンの先に、結果として、望んでいた正解が待っていることもあります。

自分に対して、どれほど純粋でいられるか?というのは、とても重要になってくると思います。純粋な自分は、身が汚れていない、心が汚れていないとかいうことではありません。どんな人にも、純粋な芯の部分を持っています。闇を抱えてたって持っています。その純粋さがあるということを忘れないことです。自分の核心ともいうべき部分です。それはとても純粋なのです。

純粋さから湧き上がる奥底の感覚や、心の声、それらにしたがって選択したことは、混じり気の無い純粋な自分自身の選択であり、それが自分だけの正解となっていくのです。つまり、自分だけの正解は、純粋な自分自身、核心の自分だけが知っているということです。

それが無から有を生み出したり、人を惹きつけてたりしていくことにつながっていくのかもしれませんね。