返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

自分で判断しよう

「本物」とは、

1)にせものやつくりものではない、本当のもの。また、本当のこと。
2)見せかけではなく、実質を備えていること。本格的であること。

デジタル大辞泉より。

「本物が見える」とは、本当のものや、本当のことが見えるということになる。

さて、本物の定義は何だ?ということは置いておき、本物の実態が、点でなく、球体であったとすると、本物は多面的なものになるから、その人が見たものは、ある面から見える本物であるということになる。もちろん、ある面から見ても本物、異なる面も本物ということになる。

つまり、この仮定において、「本物が見える」というのは、その人から見えた見せかけではない本当のものが見えているのであって、全ての面から見た本物を見ているとは限らないのである。

本物が見える人が、ある人について人物を評したとする。そして、ある人について、「先を行っている雲のうえの遠くにいるような存在で素晴らしい人だ!」と表現したとしよう。さらに、「ある人と今出会えばよかったね!」と付け加えたとしよう。

そのような評価を聞いた時期のある人について、表で表現している言動と、裏での言動は異なる人物だったとき、本物が見える人は、果たして本物が見えていたのだろうか?という疑問がわく。また、表裏が異なる人に、そのとき出会ってよかったのであろうか?という疑問も同時にわく。

上記で、本物の実態が球体として存在すると仮定した。そうすると、本当が見える人は、ある面から見れば、本当を見ているということになるから、確かに本物が見えることに違い無い。

そうすると、「本物が見える」というのは、本物を見ているにせよ、それが全ての本物ではない、ということだ。

まぁ、あれだな。全てを鵜呑みにしてはいけないということだ。本物が見える人の言うことは参考程度に、自分の心眼で判断するのがよいということだな。

枠を超えていく

スタンス

どのようなスタンスでいるのかが大事。
スタンスは意識と置き換えてもいいし、思想と置き換えてもいいし、考え方と置き換えてもいい。

いままで培ってきた自分の中の概念は、本当にそれでいいのか?

疑ってみる。疑問に思う。
広い視野で、高い視点で、俯瞰してみる。

例えば、新たなメソッド、システムに触れたとき、
その具体的なスキルを、自分の作っている概念内で学習しようとして理解するか、自分の概念を壊して、自分の中の概念外を理解しようとするか。得られるものは結果は変わってくるだろう。

教えてもらうことだけでなく、気づいて「もの」にしていくこと。そういうスタンスでいるということ。全ての気づきは、身の回りに転がっているということに気づくこと。

自分が自分自身の宇宙とつながることが大事。
自分自身の宇宙とは、本来の大元の自分のこと。

本来の自分、立体である自分とつながったとき、不要な縛りは解かれている。

水の星

水はあまねく行き渡る
分け隔てなく
どこまでもどこまでも
果てしなく

水はいつでも行き渡る
分け隔てなく
どこにでもどこかにも
果てまでも

水を止めるのは人
富める人は一時
水を枯らすのは人
溢れる水は一時
水が枯れるとき
人も枯れる

水は形を変えて現れる
優しくもあり激しくもある
包み込んだり叱ったり

水が形を変える姿は
水の意志であり人の意思でもある
安らぎだったり向かってきたり

水の姿をまもるのは人
水を守れなくなったとき
水は消えていく。

水の星
わたしたちの星

Desire of Intense Light

強い光の願い。

強い光を放ったからといって、
他の光を消すということにはならない。

強い光を放ったからといって、
他に影を造るということにはならない。

強い光を箱の中に閉じ込めても、
強い光であるが故に隙間から漏れ出る。

箱の中から出たいとも思うし、
箱の中から出る必要もないとも思う。

でもね、
箱から出て何をしたらいいの?
箱から出て何ができるの?
箱から出て迷惑にならないの?
箱から出て惑わすことにならないの?

箱は自分で決めた枠組み。
箱は自分で覆ってる殻。
誰かに見つからないように。
ずっと守ってきた箱。

そろそろ出てもいいんだよ。
そろそろ出たいんでしょ?

そんなところにいないで、
もう、出ようよ!って、
後押しをして欲しい。
出る方法を教えて欲しい。

わかる誰かに見つけて欲しい。
わかる誰かに探して欲しい。
ずっと箱の中にいるから、
どうやって出たらいいのかが
わからないんだよ。

それが強い光の願い。

ことば

悪口:①十悪の一。荒々しく人を罵ること。その言葉。②人を悪く言うこと。その言葉。
陰口:その人のいない所でいう悪口。
(三省堂大辞林」より)

こうしてみると、悪口というのは、「悪くいうこと」の定義によって、悪口になるか、ならないか、ということになる。

ある人の定義によれば、その放った言葉に「悪意があるか否か」によって、悪口か否かに別れるらしい。

悪意が全く無くても、「もっとこうしたらいいのにねぇ」という希望が、批判ととられて、それが悪口と解釈されて拡散してたりする。

言葉を放った本人に、悪意が無くても、回りに回って、その言葉を受け取った人が悪意を感じれば、悪口と解されてしまう。

回りに回っていくうちに、第三者の良からぬ解釈や念が入ってくるから、最初に発信した言葉の意図するところと違ったもので伝わるから恐ろしい。

言葉は一人歩きするものではある。軽い冗談でいったつもりが、批判や、悪口と捉えられて、影で悪口をいう人というレッテルを貼られてしまう。

又は、言葉の表面ツラだけで、最後まで聞かずに、悪口をいう人と理解されてしまう。

一方で、悪口をいわれてた!陰口をたたかれてた!って、確たる証拠もなく、ネット上で拡散させる。これも、逆悪口ともいえる。

火のないところに煙は立たぬという言葉はあれど、根も葉もない噂という言葉もある。例えば、根も葉もない根拠を基に、相手方に偽の情報を流して、謀略を企てる。ありもしない情報に基づいて、相手を攪乱させ、弱体化させる。いわゆる情報戦。

個人のレベルでも、組織レベルでも、やってることは同じ。相似形なの。

これを逆手にとって、良いイメージを吹き込み、それを拡散させたり、拡散してもらったりする。これは、セルフブランディング

何が本当なのか、嘘なのか。真実は闇の中に潜む。

最後は自分の信じるものにしたがって、極力、周りに大きく左右されず、真贋を見極められるように、目が利く人のように生きていきたいものです。

他人が教えてくれること。

人の振り見て我が降り直せ!

とはよく言ったものですね。

元々の原因が自ら発していたとしても、直接的にでも間接的にでも、他人の振る舞いで、気分を害することがあるかもしれません。

又は、いわれのないことを見聞きしたとき、やはり、気分を害することがあると思います。

そんなとき、怒り狂って反撃したくなると思うかもしれません。又は、悲しみのあまり、鬱々としてしまうかもしれませんね。

でもですよ。冷静になってみれば、チャンスが訪れたと考えることができませんか?

だって、自分に変化をもたらすチャンスですよ。自分のざわついた感情を抱き参らせる。抱き参らせるのは、他人ではなく、自分自身なのです。

このチャンスに感謝しかありません。いかに自分の傲慢さ、慢心などが現れ、いかに感謝が足りなかったことか。

他人を通して映し出されるわけですよ。

ご恩を頂いた方々には最大限の感謝ですし、そうでなかった人にも感謝ですね。

他人が私のよくなかったことを教えてくれ、それを直すことができる。そういう方向にもっていければ、良い方向に向かっていきますよね。