返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

無償化はいいことか。

私学高校の無償化って、変ではないか?

公立を無償化するのは理解ができるのです。
だって、先生は公務員だし、もともと公費が入っているだから。

なんで、私学が無償化の対象になるのかがわからない。私学にも公費が入っているし、その上、無償化となると、私学の収入源は公費ばっかりになるのではないかと思うのです。

公費が増えれば、金が出れば口もでるで、私学独自の教育もやりにくくなるだろうし。
より画一的な教育になるかもしれないよね。
もっとも、教育の現場は大きく変わっていることも知っているけどね。

そりゃ、私学が無償化されて、公費が投入されれば、一方では学校経営も楽になって、他方では親御さんの負担も減るなら、両者が得するでしょ?と思うかもしれないよね。

でもね、一方では、財政健全化とかで、所得税、住民税等の直接税の税率が上がれば、結局、未来を担う子供たちに負担がかかるし、消費税が上がれば、親御さん自身の生活にも大きな影響がでるよね。

私たちは、いかに近視眼的な視野しか持ち合わせていないのだろうか?と嘆いてしまう。

子供が減っていると言うのなら、公立を全面無償化して、公立に行くことを推進したほうが健全ではないかい?

増えすぎた特色の無い私学は合併併合を促して、少し淘汰したほうがよいのではないだろうか?

私学だって、一民間団体なんだから、甘やかし過ぎは良くないでしょ?

でもね、選挙に負けるから、こんなこと、誰も言い出さないよね。

まぁ、そうはいっても、いろいろと事情があるのでしょうが・・・。

思うこと。

スピリチュアルな生き方
ってなんでしょうね?

何をもってスピリチュアルとするか?
というのはありますが、
スピリチュアルなものを、
特別なものと思わないほうがいいです。

だいたい、スピリチュアルな生き方なんて、
日常そのものと思いますから。

いまココにいる自分のすることを、
しっかりとすること。

自分で決めたすべきこと、
目の前にあるすべきこと、
やりたいと思うこと、
楽しいと思うこと、
それを一生懸命すること。

どんな物事でも、
いまココの目の前にあることに対して、
力をかけること。

ただそれだけが、
スピリチュアルな生き方
そのものではないでしょうか?

自分に偽ってたってよく、
偽っている自分がいることに
気がつくことだって
大事なことだし、

自分に正直に生きた結果、
周りとぶつかっては
気がつくことだって
大事なことです。

好きなことをして
人生を謳歌することも
素敵なことですが、
好きなことが十分にできなくて、
苦労する期間があるのも、
立派な学びになっています。

逃げずに、どっしり構えて
取り組んでみれば、
自ずと道が開けてきたりするものです。

目の前のことにただ行動する。

それがスピリチュアルな生き方
なんだろうと、私は思います。

見えない力を手に入れることが
スピリチュアルなことではなく、
それをどのように役立てるか?
のほうがもっと大事なのです。

生まれながらにして
見えない力を備わっている人は、
それぞれの苦労があり、
目の前の人生をどのようにして
生きるかと苦心されたでことしょう。

そういう方は、
その苦労を通って、今があり、
人の苦しみが理解でき、
愛とは何か?を体現するのでしょうね。
それがお役目だからです。

後天的に、
見えない力を手に入れたとして、
自分が神になったと思いこんでしまう
場合もあります。
そういう生き方も、
スピリチュアルな生き方といえます。
神になったと勘違いした自分に気がつけば。

要は、目の前の、いまココの状況にあって、
いかに対応していくか?
そして、そこで、いかに気づきを得て、
次のステップにつなげていくことができるか?
がスピリチュアルな生き方
ではないかと思います。

ほら、こうして考えると、
人生トライ・アンド・エラー
だったりするわけで、
日常の生活そのもの
とは思いませんか?

人それぞれ。

「好きなことやりなさい。」

「好きなことを仕事にしなさい。」

最近、よく言われる言葉ですね。
でも、全員が全員、そのようになれるんでしょうか?
と思います。

好きなことをやる。
というのは、誰でも、やろうと思えば、趣味の範囲でもやれるものです。

しかし、好きなことを仕事までするのは、誰にでもできるものなのでしょうか?

うまくいかなかった人に対しては、うまくいかないようにやっているあなたが悪いと言うことでしょう。または、本当に好きなことなの?と聞かれるかもしれません。

好きなことを仕事にできた人は、好きなことを仕事にできなかった人の上に成り立っているともいえるのではないかと思います。

だって、市場のパイが決まっていれば、好むと好まざると、競争に巻き込まれたりするものです。

それに、好きなことって言ったって、それが何だか
わからないかもしれませんしね。

そして、そんなことを軽々しく口にするのは、人々を惑わすことにもなりますよね。いまするべきことから、目を背けることにもなりえますよね。

そんなこと言っていると、昭和の思想とか、昭和の概念とか思われるかもしれません(笑)

まぁまぁ、そんなことより、
いま、そのとき、その場所で、自分はどうするか?

それを考えて行動していれば、自ずと、自分の好きなこと、本当にしたいこと、にたどり着くのではないだろうか?

と思っているのです。

だから、焦らず、淡々と。
そういう生き方でも
カッコいいのではなかろうか?

人それぞれですものね(笑)

とりとめのない話2。

老中 阿部正弘

幕末期の老中首座。老中のトップの人。

評価は高く無いけれど、
人材の発掘、人材の育成、人材の登用に力を注ぎ、
大名をはじめ、町人にまで広く意見を求めたそう。

広く意見を集めて最良の結果を求めた人。
故に、即断即決するような、瞬発力が求められる判断は苦手だったのかも。

私利私欲のために不正を働いた者を処断し、風紀の乱れを正した人でもある。

自分の代で全てがよくならずとも、後の代、後々の代まで、永きに渡って人々が幸せに暮らせるように、願って行動した人ではないのだろうか。

時代の好みで、人の評価はコロコロ変わるものだとすると、人の世は続くものと考えて、今の判断が子孫たちに大きな影響を与えると考えて、人の道に外れることがないように、力を使うことがよいのであろう。

人の道は、カタギの世界に限らず、人が生きている世界には必ずあるはず。今この瞬間瞬間を精一杯生きるしかない。
精一杯とは、息抜きも含めて、目一杯楽しむことに尽きるのだろう。それが喜びとなる。

とりとめのない話。

選挙がありますね。

巷では、希望の党だの、立憲民主党だの、まぁ、いろいろ出てきました。

もともと民主党政権時でもわかるように、民進党は、思想の幅が広い党だったと思います。
今回、民進党が割れたのは、主義主張が明確なものとなるでしょうから、かえってわかりやすくなり、良かったのではないでしょうか?

さて、識者の投稿記事では、政策論争が無いとか書いてありましたが、政策論争にもっていかないのは、他ならぬ、メディアの都合であって、どこかでは政策の話はされていると思います。

でも、多くの人は、政策とか、公約とか、興味が薄いとか、興味があってもわかりにくいとか、ではないでしょうか?

それよりも、誰と誰がくっついただの、誰と誰が離れただの、そういうことが面白く見えるんですよね。

日本の選挙制度は、130年にも満たないのです。しかも、25才以上の全ての男子に選挙権が与えらえてから、100年にも満たず、20才以上の全ての男女に選挙権が与えられたのは戦後ですから、私たち国民が個人レベルで、選挙について考える歴史が浅すぎるように思います。

それで結局、テレビの露出度、新聞の記事内容に左右されて、AKB48のように、人気投票にしかならないのだろうと思います。

議会制民主主義では、世の中が変わらないのでしょうか?
我々は、救世主を待つしか無いのでしょうか?

いえいえ、我々個々人の物の見方、物事の考え方、意識の広がり方を変えることができれば、自分の身の回りは変わると思います。そして、公のために自分が何ができるのか?そのように力が使えれば、身の回りに波及していくのだろうと思います。

そういうことが次の世代へとつないでいくことができれば、たとえ、自分が生きている間には大きく変わらなかったとしても、次第に世の中は変わっていくのでしょうね。

明治維新の直前の20年~30年の間に、これからどうなっていくのか?自分たちはどうするか?というようなことを、考え抜いたのでしょう。
識者は、持てる知見、見識を、その先の世界のために、若者たちに注いだことでしょう。
そうして、新しい時代を迎えました。

先に生まれた者は人材を育成し、人材を見出し、人材が活きる機会に導く。後から生まれた者はよく学び、世の中を広く見て、持てる力を存分に発揮する。利己的でなく、利他的に。でも犠牲ではなく、自分を生かし、他人も生かす。

理想主義っぽいけど、こんな世の中がきたら、地球全体が変わるかもしれませんね。

一方と他方

しばらく更新していないのに、
アクセスしていただき、
ありがとうございます。


結果が全てである、
と申しましても、
その結果に至る過程があっての結果でして、
出た結果だけについて、
あれや、これや、
と外野が論じましても、
全く以て見当違いな議論になったり、
あるいは、見当違いで無かったとしても、
単に評論しているにすぎず、
そうして評論、議論しているうちに、
でた結果の当事者の双方を、
傷つけることになり、
途中の経過も知らずに、
やれ、どっち悪い、こっちが悪い、
と社会的制裁を加えていくのでございまして、
第三者どうしの評論、議論は、
無責任の極みなのでございます。

そして、事情を知らない人が聞きかじると、
事実でないことが一人歩きし、
それが、真実となってしまうのであります。

こういうことが、
メディアからの情報で起こっている
ということだけでなく、
身近な身の回りでも
起こっているのでありまして、
主観的な視点のみならず、
客観的な視点をも
持ち合わせている必要がありまして、
一方の側だけでなく、
できるだけ、
反対側からも推し量ることを
試みることが大事になってくるので
ありまして、
多面的、かつ、俯瞰的な視野が
重要になってくるのであります。

これを外の出来事に対してのみ
ではなく、
自分の内面に起こった出来事に対しても
適用できるようになると、
人としての奥行きが
広がっていくのであります。

よくわからない話に
お付き合いいただき、
ありがとうございます。

妄想

お主の中にも深い闇がある。
もう気づいているだろう。

軽くなれば、軽くなろうとするほど、
光に向かえば、向かおうろするほど、
闇の深さに気付かされるだろう。

光が強ければ強いほど、
闇もそれに呼応して、深く表れる。

お主は、多くの者達を導く立場にあった。
それは、過去に幾度もあった。

お主は、そのとき、誤った道を指し示してしまった。
時流を誤って、皆を陥れてしまうことになった。
そうなった結果に、誰もお主のことは恨んではおらぬ。

また、時には、お主は、お主の教え子たちに、
裏切られる、欺かれることもあった。
そうなった結果に対して、お主は誰も恨んではおらぬ。

だが、お主には、後悔の念がくすぶっているのう。

過去に犯してしまったであろう過ちが、
お主の記憶の片隅にこびりついていて、
お主はそれを恐怖に思うのだろう。

それ故、未だ、指導をする立場、
いわゆる先生と呼ばれる者に対して、
厳しい目を持ってしまうことがある。
彼ら、彼女らが、間違った道に導くことを嫌い、
彼ら、彼女らが発する軽率な言動に、
注意が向いてしまうのだ。

彼ら、彼女らも人間。人間は、過ちを犯す者だ。
彼ら、彼女らを許すことは、自分をも許すことぞ。
過去の不甲斐ないと思う自分を、もう許せよ。

お主は、導くことを止めて、
一人静かに、自分と向き合い、
自分を掘り下げていく時代を過ごしてきたであろう。
そこで、何かを掴んでいるであろう。

それらを踏まえての今回の生。

人を導こうなんて、思わなくてもよい。
お主の許へくれば、道が開けるだなんて、言わなくてもよい。

ただ、お主の許に集まってくる者達と共にあり、
各々方を活かす道を共に探ればよい。

今は、種を蒔きつつも、自分の力をためていくとき。
試行錯誤しつつ、自身が学ぶとき。
今のうちに、精進しておくがよい。
人生は、短いようで長く、長いようで短い。
焦らずともよいのだ。

いずれ、お主が必要とされる時がくる。
今は研鑽を積め。