返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

夏至の気づき

夏至の当日。

私、並み居る先輩方を差し置いて、
あることで表彰されることになりまして、
全く予想だにしていなかったことで、
喜びよりも、驚きのほうが強く、
かえって、周りの人のほうが喜んでいる、という。。。

そこで、思ったのですが、
周りが喜ぶということは、
それを妬みに思う人もいるわけでして、
思い過ごしならいいのですが、
若干の意図が感じられ、、、

それで、そういうことを避けようと、
いつも、人の後ろに隠れて、
目立たないようにしようとか、
できない人の振りして、
あなたの方がスッゴいです、といって、
2番手、3番手、うん番手で、
人の影に隠れて、
自分を守ろうとしているのですね。

それが私のこれまでの習性でした。

それで、何年かまえに、
「みんなの希望の光にならないと。」
なんてことを言われたのを思い出し、、、

あるワークで、
「この世界の王になる」
という宣言があったのもまた思い出し、、、

コレをずっと拒否していたのだな~、
と言うことに気づいたのでした。

やっと、気付きのお茶会を縁ある方々と
始めることができ、2回は順調に進みました。

ですが、夏至過ぎてから次回開催は、
みんなの都合がバラバラのようで。
最大公約数を探ろうと思いましたが、
最初に決めた日程で執り行おうと決めました。

どういうエネルギーを入れて望むのか、
これも再びのお試しなのですね。

きっと、そんなことを肚で決めてしまえば、
スムーズに進めるということですな。

自分とのパートナーシップ。
自分を信じきれるか。
新時代は、そこからスタートです。
私の場合。

権限を持つ者。

権限を持つということは、
あなたの匙加減一つで、
人に幸福を与えることもでき、
不幸に陥れることもできること。

あなたが持つ権限は、
何のためにあるのか。

あなたの気持ちに、
快楽を与えるためなのか?
そうだとすると、
不快も併せ持つ。
表裏一体の関係だから。

あなたが持つ権限は、
物事の流れを良くするためのもの
ではなかったか?

あなたが持つ権限は、
いまの状況を良く観察して、
最もいい選択は何か?
ただそれをするだけ。

そこに余計な感情はいらない。
いらぬ感情を載せるから、
全てがおかしくなる。

権限を持つ者。
それは、単なる役割にすぎないのだから。
そこで、あなたは何をするのか。

権限を持つ者も、
その役割を終えれば、
ただの人なのだ。

光。

希望の光になる。

これを受け入れことを拒否していたら、
全ての力を使えないままだろう。

希望の光は、万人に取ってではなく、
あなたの周りにいる人に取ってでよい。
大きなことではなく、小さなことだって、
希望の光となる。

抵抗するのを止める。
いまある状態に身を委ねる。
あるがままを、じっと観察する。
そして、受け入れる。

目の前にある「いま」を淡々と過ごしていく。
あるべき姿、あろうとする姿勢を以て。

あるべき姿、あろうとする姿勢は、
自分だけを守るためのものではない。
他人を攻撃するものでもない。

あるべき姿、あろうとする姿勢は、
あなたが人としてどうなのか、ということ。
それは、やがて、真っ直ぐな情熱となる。

すると、狙ってもいなかった、
考えてもいなかった、
願ってさえいなかった状況が現れてくる。
そんな状況がスッと入ってくる。

その状況を拒否することなく受け入れる。
素直に受け取る。感謝の念を以て。

それが、あなたが希望の光となること。
そして、真の力を発揮する。

夏至を迎えて想う。

組み合わせ。

自分のクセを知る。

上手くなりたいと思ったとき、先人に教えを請うたりする訳ですが、漫然と習っているより、できたか、できなかったか、について、自分の身体を観察していると、だんだん自分のクセが分かってきます。

なんでそうなるか?
なんでできなかったか?
そのとき、どういう状態だったか?

わからない場合は、先生に聞きますよね。

自分の身体の観察を続けていくと、次第に、自分の感覚と、その答えが一致してきます。引き出しの多い先生ほど、上達も速くなりますし、自分の身体が納得する機会も多いわけですね。そうすると、先生に対する信頼も上がってきますよね。

でも、自分から見た先生が素晴らしくても、別の人から見たら、普通の先生という場合もあるかもしれませんね。

これって、身体を使って習うことだけではなく、他のことにも通じるかもですね。

自分から見た世界だけが全てではない。
その人の世界はその人から見たもの。

その人には、その人の最適な組み合わせがあるということですな。

癒えていない人。

その言い方は、まだ癒えてないのね。

 

言っていることは理解できるけど。

その根底にある思いは何だろうね。

 

悔しかったんでしょう?

やりきれなかったんでしょう?
辛かったんでしょう?

いや、本当は認めて欲しかったんでしょう?

 

だから、そこから離れたんだよね。

 

はやくその気持ちを認めておしまいなさい。

 

そうでないと、あなたのまわりには、癒されたい願望の人ばかり集まってくるんだよ。

 

あなたがそうしたいなら、あなたが望むならそうすればいいんだけど。

 

心の内をちゃんとみたことはあるのかい。

頭で出した答えは、本当の気づきではないのだよ。

じっと、内面をみつめていると、フッとわき上がってくるんだよ。

どうしようもなく気づくんだよ。

 

それをしっかりと受け止められるかい。

 

でも、それが怖いんだよね?

でも、それをする勇気が足りないんだよね?

 でも、それを受け止めようとすると、自分でつくってきた偽りのアイデンティティが壊れちゃうんだよね?

 

いま、あなたが見た、あなたが嫌だった、その避けて通った道を、あなたが通ろうとしていることに気づいている?

 

ミラクルとか、パワーとか追い求める順序が違うんだよね。

 

わかるかな?

 

届くといいな。

自分にあるものが投影される。

泣き言のようにもみえることを残念に思うのは、自分の中にもそれがあるから。

 

それを残念に思うとき、

 

例えば、
「何いってるんですか?しっかりしてくださいよ!」
と思ったとしたら、

 

「何いってるんですか。しっかりしてくださいよ。」

と他人から言われている自分がいるということ。

自分で考えてみる。

自分で考える人になる。

自分で考える人になるというのは、全部自分でやりなさいというのではありません。

人の話を全部鵜呑みにせず、判断の全てを預けてしまわず、何を言わんとしているのかを察知し、どういうことだったのかを考えるということです。

そのために、仲間うちなどの間で、考えや、感じたことをシェアする場は大事でしょう。

最初のうちは、よくわからないので、話を聞くだけのことも多いでしょう。また、新しい情報を
取り入れるのに、誰かの話を聞くだけのこともあるでしょう。

それだけでもいいのですが、何らかの形で、自分で考えて、アウトプットしあうことは、そのものごとの理解に役立ちます。しかも、思考的な理解だけでなく、感覚としての理解、体感としての理解も。

そうしていくことで、スパイラル的に、あなたの進化が加速していくことでしょう。

何が正しいなんて分かりません。正解を求めても、でた結果がどうだったかというだけのことです。

結果が出ることが速い時代になったと聞きます。年齢など関係なく、自分で考えて、何事も、可能な限り、意欲的に取り組みたいものですね。