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返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

裏切るということ。

「裏切る」という行為は、裏切る方が悪いのか、裏切られる方が悪いのか。

「裏切る」とは、敵方につき、味方を背くこと。または、人の信用に背く行為をすること。

良し、悪しという判断は、相対的にみてどうかということではあるし、思い込みの場合もあるが、多くの者は、日常的に行っていることであろう。

なぜ、裏切るのか?
生命の危機がかかっているとき、人は裏切るだろう。そこでの活躍の場が失われそうなときも裏切るだろう。立場が弱くなりそうなとき、または、有利な立場になりたいとき裏切るだろう。その場が楽しくなったと思うとき、裏切ることもあるだろう。

裏切られる側はどうだろうか?
満足に相手をしなかったり、満足に食べさせるだけの禄を与えなかったりするとき、裏切られるだろう。また、囲い込みがしつこかったりするときも裏切られるだろう。さらに、都合よく使われている場合も裏切られるだろう。

裏切る、裏切られるという行為は、怨恨の原因ともなるし、人を狂わせる行為にもなるし、人としての信用にも関わってくる。
どうしても、やむにやまれず、やむを得ない場合を除いては、慎みたい行為であると思う。

最も、裏切りの程度と人が感じる程度にはギャップがありますがね。

今日もお読み頂きありがとうございました。

子どもと遊ぶこと。

子供と遊ぶのは、ハートを開く事と同義なり。

と言ってみたのですが、子どもと遊ぼうと思ったら、やはり、ハートが開いていないと遊べません。というか、遊びに、ちゃんと付き合おうとすると、ハートを開かざるを得ません。

これは、他人の子どもと遊ぶときのことです。もちろん、相手の親が、OKしていることが前提です。

子どもとちゃんと遊ぶとき、ハートを開いた状態の一つの形として、「アホちゃうか?」と自分でも思うような状態、他の大人から見たら、「バカだろ?」と思われるような状態になったりします。
誤解のないように予め断っておくと、子どもがアホといっているのではありません。

さて、この状態のとき、子どもと全力で遊べたりします。しかも、結構楽しく。なぜでしょうか?

それは、こっち側が、こっちは大人だぞ!という姿勢でいないからです。子どもの遊んで遊んで攻撃をこっち側が受け入れる状態であれば、子どもと楽しく遊べるのです。もちろん、ダメな遊びに入りそうになったら、やんわりとダメといいますよ。

子どもと遊んで、家に帰ってくると、楽しさの余韻に隠れて、疲労感も感じるものです。いい意味の疲労感ですけどね。

子どもと、ハートを開いた状態で遊ぶとき、知らず知らずのうちにかぶってるいつもの仮面が外れます。ですから、自分も素の自分でいることになりますね。

つまり、ハートを開くというのは、素の自分に戻るといえることにもなりそうですね。

今日もお読み頂き、ありがとうございました。

シンギングリン瞑想会の体験。

シンギングリンという楽器。

シンギングリン。実は、今まで、ちょっとだけバカにしていました。だって、シンギングリンで覚醒するとかなんとかって・・・。

シンギングリンを扱っている方々、本当にすみません(o_ _)o

それが、借り物ですが、自分で鳴らすようになって、音はいいというのは分かった。鳴らすのも簡単ということも分かった。
そして、それが、全倍音が鳴るらしい、これが身体の領域を癒やすらしいというのは知識として知っていた。

それが、友人に誘われたので、リンの瞑想会に参加してみた。瞑想に深くはいれなかったのですが、どういうことが起こっているのかを観察してみることにしました。

そうしたら、どうだろうか。身体のコリとか、滞っているであろう部分とかに反応するではありませんか。つまり、今そこが悪いのね。やっぱりね。って思うことが起こるんですね。

身体の部位は、それぞれ固有の周波数を持っていると言われているわけですから、全倍音がでるといわれているシンギングリンを奏でた音の周波数によって、身体の調子の良くない部分が必要な周波数を受け取って、調整する作用が働くということだと思いました。これは、大きなシンギングリンのときに感じたことです。

小さなシンギングリンは、音が高いためなのか、まず、頭部にくるみたいでした。頭頂から入って、頭の中心、身体の中心を通り、会陰方向に抜けていく感じでした。小さなシンギングリンだけで身体の調整作用が弱い感じでした。小さなリンは、コメカミから入って、反対側のコメカミに抜けていく感覚もありました。

さてさて、身体の調整が終わったと思った頃に、真っ暗なはずなのに、周りから光が射してきます。そして、その光が走って行きます。まるで、無数の竜が登っていくように。不思議です。

今回のシンギングリンを使った瞑想会、まず身体の調整があって、その後で次の世界に出逢う。つまり、物質世界が整って、やっと非物質世界に到達するのだろうなど、と思ったんですね。

瞑想時間は45分くらいだったようですが、あっという間に終わってしまいました。
それだけ、得るものが大きかったということでしょうね。

なお、体感は個人個人で違うと思いますので、興味が湧いた方は、どこかで体験してみるのも面白いかもしれませんよ。

今日もお読み頂き、ありがとうございました。

ようやく。

何かを始めると、何かを言われて、人が離れていく。

これが嫌で、目立たぬように、後ろに引っ込んで、影に隠れるようにしていたんだね。たぶん。

本当は、小さな組織を組んで、みんなの前にたって、本当はできるんだよって、大丈夫なんだよって、みんなを励まして、自信を持たせて、開花させることに喜びを見いだしていくことがしたいんだよね。

世の中に出てから、差を見せつけられて、ダメな自分でいるから抜けるのに努力して、また差を見せつけられては努力して、の繰り返しだったね。差があるのは、当たり前。相手のほうがキャリアがあるのだから。そこでの先行者だから。そりゃそうさ。

今となっては、周りにいる仲間たちに励まされ、褒められ、だんだん、自分はこれでいいんだ、このまま歩みを進めていいんだ。と思えるようになってきた。そんなの才能なのって思うことでも、素直に受け取れるようになってきた。本当に有り難い仲間たちが周りに控えているんだよ。

もう、そろそろ、自分をもっと発揮していい頃合いになってきたみたいなんだ。そのために、もっと楽しんでいいみたいなんだよ。

でも、まだ自分の中には葛藤がある。眠っている能力を爆発させたい、出し惜しみしないで全開させたい自分と、もっと楽しんじゃっていいの?そんなにはしゃいじゃって大丈夫なの?バカっぽくない?とか思う自分とね。

この葛藤の中には、扉を開いてしまう恐怖だったり、扉を開いてしまった後の不安だったりがね、まだ潜んでいるんだよ。この感情はとっても厄介だ。

それでも大丈夫。見えないところでは準備が着々と進んでいる。それに、何かに急がされているみたいな気がする。そのための出来事が続いていく。

出逢いは続く。出逢う必要のある人は用意されている。進むべき道は用意されている。自分が決心すればね。

進むときは、一気に進む。そういうもんでしょ?
だから、自分を楽しめ!

今日もお読み頂き、ありがとうございました。

到達した者にしか。。。

今の中今、中今の今。

今この瞬間、息を吸って吐いている、一連のこの瞬間。心臓が動いているこの瞬間。

しばらく忘れていたけど、思い出した「中今」ということば。

中今とはなんぞや?
概念としては分かるけど、他人に説明できるだけのことばでは言い表せないもの。

この瞬間、いまこの点の世界、限りなく広がりの無い点の世界。そこから、千万無限の世界にまで広がるその瞬間。

その一瞬の、その微塵の、その僅少の、その想念、その思念が、あなただけの世界を想像する。そして、それが、外の世界に波及していく。

概念がいくら分かったところで、一回の体験に勝るものはない。みんな、本当は知っているはずだけど、思い出せないだけ。たぶん。

中今に生きるとは何なのか?

知って、体験して何とする。というのはあるけれど、そこに到達して初めて分かることもある。

いつか、この世界の仕組みが理解できる日がくるといいな。

ちょっとずつ。

あなたを見て思うことは、自分にあるものが投影されている。という。
これをなかなか認めたがらない。
嫌な自分は見たくないものね。

これを仲間どうし、互いの距離が近くなれば近くなるほど、仲間に投影される嫌な自分を機会が増えるのだとか。

これを嫌な自分に出会ったね~。と感謝することができて、俯瞰することができたら、どんどん嫌な自分を脱ぎ捨てることができるのだそう。

一説によれば、お釈迦様でさえ、他人に自分の内面の姿が投影したのをみて、一つ一つ解消してたらしい。

死ぬまで、一生かかって勉強とは、よく言ったものですね~。
これを修行と捉えないで、ちょっとずつ楽しみつつできると、いいのでしょうね~。

世界は終わらない。

男性が変わるというのは、男性が培ってきた、これまでの習慣を変えるということじゃな。

普通こうだろう!の「普通」は、いまでも普通なのかぁ?
そんなの常識だろ!の「常識」は、実のところ、本当に常識なのかぁ?
よく考えてみるのも良かろうて。そなたの世代だけみてたのでは、誤ることもあろうぞぉ。

時代が変わるとな、いままでの普通、常識が通用しなくなってくるようになるぞえ。過渡期にはなぁ、まだ通用してもじゃよ、次第に通用しなくなるものじゃな。

というよりもじゃよ、それが通用する世界にしかいられなくなってくるのじゃな。それが窮屈でなければ、そこにいるのもよいじゃろな。そこが居心地がいいのじゃろ?そこから離れるのが怖いじゃろ?

まだまだじゃがな、女性が先に変わってくるぞえ。そなたたち男性諸兄もうかうかしとれんぞえ。

これからの時代はなぁ、時代の要請なんじゃろな。争い、奪い合い、騙しあい、蹴落としあい、そんな世界から、足を洗う人も多くなるじゃろなぁ。そこの世界に棲む者たちも少なくなるかもしれぬぞえ。
そなたもな、いつかは足を洗ってみよ。新しい出会いがそなたを救うかもしれぬぞえ。

しかしじゃな、これからの時代はなぁ、そなたたちが思う、より良い世の中というのものは、誰かが作ってくれるのではないのじゃよ。そなたたちの手をもって、互いに作り上げていく世界になるのじゃな。

まぁ、最初は誰かがきっかけをくれるだろうがな、そのきっかけを、活かすも潰すも、そなたたち次第じゃな。

まぁまぁ、一朝一夕には、「こと」は運ばん。徐々に、徐々にじゃな。

地球を住みやすい世界として次の世代に渡すことができるか、そうでないかは、そなたたちの今、この瞬間の心持ちの積み重ねの結果になるのじゃな。

そなたたちが変われば、世界は変わるぞ。その世界は終わりをみせないじゃろな。
ホッホッホ。