返ってきたミトラ通信

おおいなる調和を目指してしなやかに生きる。

一方と他方

しばらく更新していないのに、
アクセスしていただき、
ありがとうございます。


結果が全てである、
と申しましても、
その結果に至る過程があっての結果でして、
出た結果だけについて、
あれや、これや、
と外野が論じましても、
全く以て見当違いな議論になったり、
あるいは、見当違いで無かったとしても、
単に評論しているにすぎず、
そうして評論、議論しているうちに、
でた結果の当事者の双方を、
傷つけることになり、
途中の経過も知らずに、
やれ、どっち悪い、こっちが悪い、
と社会的制裁を加えていくのでございまして、
第三者どうしの評論、議論は、
無責任の極みなのでございます。

そして、事情を知らない人が聞きかじると、
事実でないことが一人歩きし、
それが、真実となってしまうのであります。

こういうことが、
メディアからの情報で起こっている
ということだけでなく、
身近な身の回りでも
起こっているのでありまして、
主観的な視点のみならず、
客観的な視点をも
持ち合わせている必要がありまして、
一方の側だけでなく、
できるだけ、
反対側からも推し量ることを
試みることが大事になってくるので
ありまして、
多面的、かつ、俯瞰的な視野が
重要になってくるのであります。

これを外の出来事に対してのみ
ではなく、
自分の内面に起こった出来事に対しても
適用できるようになると、
人としての奥行きが
広がっていくのであります。

よくわからない話に
お付き合いいただき、
ありがとうございます。

妄想

お主の中にも深い闇がある。
もう気づいているだろう。

軽くなれば、軽くなろうとするほど、
光に向かえば、向かおうろするほど、
闇の深さに気付かされるだろう。

光が強ければ強いほど、
闇もそれに呼応して、深く表れる。

お主は、多くの者達を導く立場にあった。
それは、過去に幾度もあった。

お主は、そのとき、誤った道を指し示してしまった。
時流を誤って、皆を陥れてしまうことになった。
そうなった結果に、誰もお主のことは恨んではおらぬ。

また、時には、お主は、お主の教え子たちに、
裏切られる、欺かれることもあった。
そうなった結果に対して、お主は誰も恨んではおらぬ。

だが、お主には、後悔の念がくすぶっているのう。

過去に犯してしまったであろう過ちが、
お主の記憶の片隅にこびりついていて、
お主はそれを恐怖に思うのだろう。

それ故、未だ、指導をする立場、
いわゆる先生と呼ばれる者に対して、
厳しい目を持ってしまうことがある。
彼ら、彼女らが、間違った道に導くことを嫌い、
彼ら、彼女らが発する軽率な言動に、
注意が向いてしまうのだ。

彼ら、彼女らも人間。人間は、過ちを犯す者だ。
彼ら、彼女らを許すことは、自分をも許すことぞ。
過去の不甲斐ないと思う自分を、もう許せよ。

お主は、導くことを止めて、
一人静かに、自分と向き合い、
自分を掘り下げていく時代を過ごしてきたであろう。
そこで、何かを掴んでいるであろう。

それらを踏まえての今回の生。

人を導こうなんて、思わなくてもよい。
お主の許へくれば、道が開けるだなんて、言わなくてもよい。

ただ、お主の許に集まってくる者達と共にあり、
各々方を活かす道を共に探ればよい。

今は、種を蒔きつつも、自分の力をためていくとき。
試行錯誤しつつ、自身が学ぶとき。
今のうちに、精進しておくがよい。
人生は、短いようで長く、長いようで短い。
焦らずともよいのだ。

いずれ、お主が必要とされる時がくる。
今は研鑽を積め。

雨の終戦記念日

8月15日終戦記念日
今年は雨だった。

ドラマなどで聞いてきた、玉音放送から流れてくる
「耐え難きを~耐え、忍び難きを~忍び」というフレーズが思い出される。
ここで、戦争が終結とされているのが日本では一般的である。

昔、学校の授業では、習うことはなかった。
なぜ、戦争に至ったのか。なぜ、負けるに至ったのか。なぜ、原爆が落とされたのか。
本当に侵略戦争だったのか。もし、侵略戦争なら、なぜ、無謀とも思える侵攻を行ったのか。
不思議だった。

さて、先の大戦に関係するドラマ、アニメでの切り取り方はいろいろだ。
作者、編集者が、先の大戦をどのように描きたいかで、景色が変わる。
また、それを見た者の印象も多様になる。

戦時下であっても,立派な立ち居振る舞いをした者もあれば、
戦地で暴れまわって、狼藉を働いた者だっていただろう。
どんな状況だったのか。その場にいた者にしか分からない。

一部だけを切り取って、侵略戦争だったと定義とされてしまったり、
やむにやまれず戦争に突入せざるを得なかったとされたり、
欧米列強からのアジアの解放のための聖戦であったとされたり。

先の大戦で、戦地に赴く若者の中には、嫌々行かされた者もあったかもしれない。
けれど、愛する人々の幸せのために、国を残すべく、戦地に赴いた者もあっただろう。
純粋に国のため、天皇陛下のためと思って戦地に赴いた者もあっただろう。

いつの世も、例外はあったとしても、ほとんどの若者たちは、理由はどうであれ純粋だ。
その純粋さを利用されて、戦争が推し進めたという見方もできるし、
その純粋さ故に、西洋列強からのアジアの解放を実現したという見方もできる。

立場が違えば、見解は、必ずと言っていいほど、相違する。
子供たちのケンカをみてみるがいい。
お互いの言い分が違うことがわかるだろう。
どっちも、自分たちの立場を有利にしようとして、多少の誇張なり、虚偽まがいの発言もあるだろう。

これが、支配するような争いとなると、話は随分と酷くなる。
謀略、暴挙の限りを尽くし、最後は勝利した側が、有ること無いことを並べ立て、
勝利した側の正当性を喧伝し、最終的に確定した歴史にしてしまう。
これは、人類始まって以来、脈々となされてきたことである。
歴史の真実は、本当のところは誰にもわからない。
たとえチャネリングしたとしても、証明する術がなければ、一説にすぎない。
真相は闇なのである。

断っておくが、ここでは、戦争の是非を問おうとしているのではない。

戦争反対と叫んで、デモに参加したところで、それは争いをしているに過ぎない。
かといって、反戦論者を否定したところで、それも争いをしているに過ぎない。

個人だけでなく、私達全体の生命の危機に直面すれば、争わざるを得ないだろう。
アニメ進撃の巨人であっても、人類の危機にあれば、争うものだ。
反戦論者であったって、人喰巨人と出会えば抵抗するだろう。

話がそれた。

さて、そういった中で、私達には、何ができるのか?

私達にできることは、争おうと、争うまいと、
ご先祖に顔向けできる生き方、お天道様に恥ずかしく無い生き方を目指すことではないか?
正々堂々と、勝負し、散るときは潔く散り、
勝利したとしても、見下すのではなく、かけるべき情けが有れば、それをかける。

例えば、われらの日本史を見てみよ。
たとえ英雄であったとしても、力に任せて勝ち、その上さらに負けた相手を辱めた者は、
後世にまで恨みを買っていることに気付くだろう。

私達の国には、神道がある。武士道がある。神仏が集合されている。
縄文のいにしえから脈々と続く、2000年を優に超える文化を持っている。
当然悲しい歴史を抱えてもいるが、
そこには、慈悲だったり、愛だったりするものが確かに存在している。

私利私欲にまみれた生き方ではなく、公のために何ができるのか?
自分と自分の身の回りの世界がどうあるべきなのか?

そういったことを創造していける人々が増えていったら、
少なくとも、心から平安な世界が広がっていくのだろう。

そして、それが、やがてこの国を形作るビジョンとなっていく。

私たちにできることは、この国土と自然を愛し、
先人たちに敬意を表し、受け継いだ時代から、新たな時代を築き、
次の世代に、恥ずかしくないバトンを渡すほかはない。

終戦の日に思ふ。

いまできること

いまできる精一杯をやろう。

その先の糧になるから。

取り組む純粋さをいつまでも心に持っていよう。

それは魅力となるから。

自分の中の絶対に譲れない姿勢は変えないでおこう。

たとえ微修正したとしても、

それは自分の軸となるから。

そして、

それが輝きとなるから。

 

独りよがりでいいということではなくて、

わがままを通せばいいということではなくて、

他人のいいところは沢山取り入れつつ、

愚直に見えても、

自分がしようと思うことをしよう。

 

そうやって、

公にどれだけの多くの影響を与えことになるか。

自分の行動は、

すべてに繋がっているし、

やがて自分に帰ってくる。

日々に積み重ねが、

長い年月にわたって効いてくる。

 

やべぇ。耳が痛い(笑)

行き当たりバッタリ

流れに身を任せるのは、流れに流されるのではなく、

流れに乗って、こっちに来たものをつかむということ。

かといって、何もしないで、日々やり過ごすというのではなく、

何も考えずに、思考を停止することでもありません。

例えて言えば、歩いている道すがら、美男(または美女)を見つけ、

その美男(または美女)の何かに対して、ハッと思ったことを掴む感じでしょうか。

 

日々生活していく中で、興味があるものを見つけたら、

時間と費用の許す限り、調べてみたり、触ってみたり、見てみたり、行ってみたり、

何らかの行動はしていると思います。

 

その行動の中で、やってくるヒントをつかむと、次に行こうとする道が見えて、

そっちに進んでいくことになります。

そのヒントとは、面白そう!とか、これなら!とか、

いわゆるピンときたものになるのですが、

そういったヒントに対して、センサーを向けていないと逃してしまったりします。

センサーを向けていたとしても、思考が強すぎて、理由づけが多くなると、

センサーが働かず、流れに逆らったジタバタしている行動になってしまうことにもなります。

または、理由づけが多すぎて、行動できなくなったりします。

 

でも、最終的に、ある時点でヒントとして捉えられれば、

ジタバタしている行動であっても、行動しなくても、流れの中の一つとなり、

全体としては、流れに乗って身を任せることになるのかもしれません。

 

流れに身を任せるというのは、あるところに到達するまでの流れの中で、

その行動の全てが、直接的に結びついているというよりは、

間接的に、全ての行動が連動していることに気づかされます。

 

その流れの中で、そのときそのときで、

必要な人が身の回りに配置されていて、必要な時期に必要な人がやってきて、

必要なものを、ヒントとなる何らかを、もたらしてくれる。

そして、そのヒントを掴んで、実際に舵をきろうとするとき、

そのときに、他人の意見を参考にしたとしても、

あくまでも、肚を括って、自分で決断することが大事であり、

その肚の括りかたの程度、言い換えると、地に足をつける程度、その深さが、

舵をきった後の、その先の世界の進み方が変わっていくのだろうなと思います。

 

自戒を込めて。

 

 

生かす活かす

自分を生かし、相手を活かす(漢字は当て字にしています)。

自分が生き生きと生き、相手を活き活きと活かす。

自分そのものを生かすことは、自分そのものを表現すること。

自分が表現できていれば、他人の表現も受容できるということ。

そうしたら、相手は必然的に活かされるだろう。

 

自分を殺すことなかれ。

自分を犠牲にして誰かに託すのではなく、自分の人生は自分で体験する。

それが、誰かが手本にしたり、模範にしたりしていくようになる。

そういうことも、相手を活かすことになる。

 

とりあえず、私は、美味しいもの食べて、自分を生きますよ(笑)

母娘1

子供を育てるって大変ですよね。

例えば、左前方に座ってる親子は、子供のドリルを親が答え合わせしている様子。

間違ったところがあったら、教えているみたい。

夏休みの宿題か、お受験対策か。それはわかりません。

 

いつの時代も、親は子供に期待をかける。

どのようなスタンスで、子供に期待をかけるのか。

親のためになっていないか?

本当に子供のやりたいことの支援になっているか?

その在り方は、子供を通していつも問われているのでしょうね。

 

私はネコさんと楽しく遊んでます。

いえ、遊んでもらっているのかも(笑)